sorede-iiのブログ

鬱病になった3歳男児の母ですが「それでいい」と思った日々のいろいろ

仕事を辞めたら

仕事を辞めました。まだいろいろな感情があるけれど、鬱状態でコロナ環境の中、在宅で3歳男児を見つつ復帰することは私にはできない!諦めた!

 

と、辞めることにしました。昔から辞めることが不得意。バイトだって、習い事だって、辞める自分が許せないところがあるんだろうな。もうこういうのを一個ずつ外していく。それがこれからの私の通っていく道なんだと思う。

 

仕事を辞めたら、いろんな変化が出てきた。

 

まず、夢をたくさん見る。学生の頃の日常の風景だったり、ハリーポッターみたいな特有の世界での冒険だったり。

 

その「非日常」を常に夢でなぞることで、朝起きると毎回味わう、今の「日常」の味。これをどれだけ続けられるのか。日常を続けていく力が結果、一番大きな力になるんだってことが最近実感してきて、小説でも同じようなテーマを知らず知らず選んでいて、私の一つのテーマになりつつある。「日常」という愛の形。

 

その日常について考えていたら、まずお金という問題にぶち当たった。お金はいろんなところで出てくるな。

 

最終的にはお金から自由になった世界へ向かっていきたいと思っているのだけど、今考えられるのは農業というところくらいしか知識がないなあ。でも、どうしてもお金がなくなったときの、先に我が身を守ろうとする心 が怖い。人が生き延びるためにはそれが本能として備わっていないとっていうことは頭ではわかるんだけど、どうしても椅子取りゲームのようなその雰囲気が苦しい。そこで椅子を取らないと生きていけないのであれば生きることを諦めてしまいたい、という感情になる。鬱に呑み込まれるとき、この感覚が引き金になることが多かった気がする。パニックになる。苦しい。そして全力で逃げたくなる。

 

だから、お金がない=生きるための余裕がない=生き残るための椅子取りゲームに参加

という図式になるのが怖い。きっとならない方法はたくさんあるだろうし、なってもいいという考え方があるというのもわかるけど、まだ探し切れていないな。

 

昔見たNHKでのネットカフェ難民のドキュメンタリーで、足掻いても足掻いても貧困から抜け出せなかった男性の目が忘れられない。あの目はもうこの世界に生きていないように見えた。諦めていて、疲れていて、でも体は続いていて。。そういう目だった。怖かった。

 

お金を考えないで生きる、ということをしてみたいけれど、あの目が忘れられないな。そして息子をあの世界から守りたいと思ってしまうなあ。

 

日常

 

はどこにあるのか。一つ一つを。戻りたくても戻れないと知りながら過ごす同じ毎日を。意識しすぎたら壊れてしまう、死の存在を薄める繰り返しを。繰り返し。繰り返し。